娘が話せるようになった言葉

「ちち」「うまいね」「かんぱい」「どうぞ」
kakijiro 2026.03.01
誰でも

2月はあっという間だった。

家を空けた日数は11日ぐらい。信濃町から熊本、名古屋、京都、東京など、どこに行っても片道3時間〜5時間ぐらいかかる。以前だったら1泊どこかつなぎの宿泊を入れて、出張の効率をあげていたものだけれど、「自宅で寝ないと回復できない」「家族の時間が大事」「娘の顔が見たい」などなど、おれには家に帰る理由がある!

そのモチベーションはとても強い。できるだけ直帰だ。1泊でも翌日は午前中の新幹線に帰る。この繰り返しを11日の中に詰め込んで過ごしたが、2月の残り14日ぐらいは妻が体調を崩して、娘はインフルエンザB型だった。私は過労によって腰を痛めて、血流が滞って、何度もうまいものを食べるための予定に合わせて体調を崩した。身体が冷えて冷えてしょうがない。

それでも、いま3月を迎えて生きている。娘はすくすくと成長している。

命の芽吹きである。子どもの発達である。父は中年ど真ん中の老化現象と闘っている!

いや〜、娘がかわいいんです。ここ最近、「うまいね」「どうぞ」「かんぱい」など、明確な言葉としての発生が増えてきていて、「え、いつのまに!? 成長してる!」となる。小さな心の声で「11日も家を空けている間に……」が脳内にこだまする。

悲しさと嬉しさでいっぱい。なぜなら、父は全国をとびまわってなんとか食い扶持を稼いでいる労働者だからだ。効率化を求めた知的生産者ではない。代償として時間を差し出しているのである。ほんとに働きすぎだよ。動きすぎだよ。打ち合わせが多いよ。ありがたいよ。おれとまったく同じ生活を体験できるVR、だれか作ってくれないか? いわゆる深夜まで徹夜作業はほぼないが、日々の役割とリアクションと移動量は、閾値を超えている気がしてならない。

話を戻す。とりわけ、娘に教えているコマンドは「ちち(父)」「うまいね」だ。なんとなく連続して「ちちはうまい」と誤認させる努力をしていて、妻には「なんで?」と呆れられている。「おいしい」の表現よりも「うまい」の力を信じているので、大阪DNAの流れを汲むうまい派として生きてほしい。

だれに似たのか行動に対してのこだわりが強い。ご飯もひとつの食材をぜんぶ食べてから、次の食材に移行する。歩き方やルーティンも生まれてきているし、できなかったときの癇癪ったらない。わかる、わかるぞ。その気持ちが痛いほどに。

今日は、4カ月と1歳4カ月でこんなにも成長するのかと感動してしまった。なにもできない4カ月からたったの1年しか経っていない。まわりでも子どもが産まれて、てんやわんやしている様子がInstagramで流れてくるものの、プロセスのリアリティはSNSには出てこないなと思う。むしろこういった文章のほうが伝わるのかもしれない。喜びも難しさも家族の空間にだけある。

成長速度も発達の段階も子どもそれぞれすぎるが、ただ抱っこしたときに背中をぽんぽんと叩いてくれる仕草やご飯をおいしそう食べて「うまいね」と言ってくれるだけで、大きく報われる何かがある。この報われる実感こそ、いま社会から喪失している感情なんだろう。またその報われる段階も、喪失の段階も、あらゆる領域に存在する。

周囲では経営の報われなさが極まってきているが、これもまた平行世界のマルチバース的に解釈したいが、不景気という社会プロンプトはあらゆる人間の不機嫌を誘発する。都市で肩をぶつける人間が出てくるのは、前兆そのものでしかない。

娘には「こわいね」を言わせたくないものである。

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