強い自我が立ち上がってまだ10年
社会に放り込まれた瞬間、無邪気な自分を見失ってしまう。
これは誰にでも起きてることだと思うが、刷り込まれた社会人の正しさみたいなものは呪いになりえるなと思う。まともに働いて、まともに生きていなければいけない。このまともさを押しつける人は、まともさの正体を考えることなく耐えきったタイプだろう。
社会の基盤を維持するための”社会人”は、少し俯瞰すれば税金をしっかり納めるための職業だともいえる。この枠の中に入るだけでも大変なので、一度自我を見失ってからがスタート。学び、合わせて、適応する。入口が学びになっているだけでラッキーな方で、世の中にはブルシット・ジョブと揶揄されるような仕事も残念ながら存在する。
時間の切り売りで、身につかない——はて、それでも毎日をなんとなく過ごして、死んでいくのも悪くないなとは思うが、このなんとなくさは、まともさに押し潰されていくのがまた社会である。責任と無責任の間についても考えるが、どうやらシリアスな時代に突入しているため、こんなことを考えてもしょうがないようだ。
なんとなく必死に社会人ヅラをしていって、運よく人生を懸ける仕事に出会えたのが32歳だった。全国47都道府県を経費で取材できるジモコロ編集長。正確にはこの役割を通じて出会った日本のローカルのおもしろさが、それまで押し潰されそうになっていた自我を強烈に立ち上げてくれた。むくむくと芽が出て、どしっとした花が咲き、意思の種がメディアを通してばらまかれる。
いま思いつきのキーワード「自我の樹」を文字入力しただけで、字面のやばさに震えている。あんまりよくないなこれ。自我の話はいいけれど、付加属性の「樹」を足すとやばい。「自我の木」はギリいけそう。つまり「ポムの樹」はオムライスを超えた意思がありそうだな……と思って調べたら「ポム=りんご」だった。なんだよ、めちゃポップじゃねぇか。
何を言いたいかというと、強い自我が立ち上がってまだ10年ちょっとなんだなと。この時間軸に拍子抜けな感覚を急に抱いてしまって、「なんだよ、おれの自我まだ10歳か」となってしまった。それ以前の自我ももちろんあるが、定期的に自我を真空パックして思考の宇宙に放り投げる癖があるため、いまはもう手元にない。いつか引き出せる。
そろそろここ10年の自我も真空パックにするか、もっと強く固くしていくのか。考え時なんだろうなと思っている。一部だけ入れ替えたり、トリミングしたり、投げて捨てて遊んだりすることも可能だ。これは「いつまでも人間は新しいことにチャレンジできる!」なんて自己啓発めいたメッセージではなく、同じ年齢でも自我を20年以上育てている人もいれば、私のように10年ぐらいの認識に切り分けることも悪くないなと気付いただけの話だ。
立ち上がった自我の強度や形によって、環境は変化する。住む場所を変えることもあれば、職場を変えることだってある。この前後の文脈の中に「独立未満」の概念が存在するんじゃないかとも思う。自我と独立。切っても切り離せない。歪な自我を自己認識できずに、他者にぶつける人が大半。自我のコントロールがうまい人は、何をやっても楽しめるんだろうな。
そんな徳谷柿次郎の自我についてインタビューを受けたPodcastがあります。最近、いろいろと取材される機会が増えてるんですけど、なんかの流れですかね。
●清水宣晶さんの伝記Podcast「暮らし百景」
●岡澤浩太朗さんのPodcast「Sprout!」
●アートについて取材を受けた「Artovilla」
「ツルツルよりザラザラが好き」作家・徳谷柿次郎が語る、自分の意思を選び取る生き方 / 連載「わたしが手にしたはじめてのアート」Vol.43
●1/26 21:00〜Xで「ツドイの編集学校」でスペース配信
次回は、徳谷柿次郎さんをお迎えして、
1/26(月)21:00〜 配信予定です!
またぜひ、お聴きいただけるとうれしいです🎙️
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