娘の「イヤヤイヤヤ期」到来

イヤイヤではない。イヤヤイヤヤなのだ。
kakijiro 2026.05.07
誰でも

GWはずっと信濃町にいた。遠出はしないで近隣の友だちに会いに行ったり、買い物をしたり、畑準備をしたりなど、基本近場で5日間ずっとダラダラと過ごした。

この間、保育園のない娘とずっと過ごすことができてとてもよかった。何かが完全回復した。一瞬だけかもしれないが、ここに完全回復を宣言したい。

思い返せばここ半年ぐらい、つまり冬の入口から花粉症のひどい春先までずっと感覚が詰まっていたように思う。血流もそうだけど、社会情勢の不安とAIによる産業革命によって、小さな会社を経営する危うさみたいなものに飲み込まれていたんだろうなぁ、と。

しかし、娘と長く過ごすことですべてがどうでもよくなった。

なにせ1歳半で本格的なイヤイヤ期、いや、イヤヤイヤヤ期を迎えたからだ。どこで「嫌」という感情と言語感覚を持ち運んできたのかわからないが、思うようにいかないと「イヤヤイヤヤ」と表現するようになった。ナイス発達。「イヤ+ヤ=イヤヤ」のロジックは完全に関西弁のロジックで、「イヤ!」と言い切らないあたりに優しさを感じている。

ここでの学びは大人にもイヤイヤ期があるってこと。いや、むしろ明確なイヤイヤを自覚して、ないがしろにしないことが重要だなと思えた。だってイヤなんだから。イヤなことはイヤだと自ら受け止めないと前に進むことができない。

娘のイヤヤイヤヤをずっと浴びて、日中に爆発した喜怒哀楽と自然の情報量が深夜にこぼれて「いや〜〜〜〜」と泣き叫ぶ姿を見て、大人として抱えていたイヤイヤが打ち消された感覚になった。

打ち消したい音には同じ音域をぶつけあう。緊張感を生んで、その反動で弛緩する。人生のメリハリみたいなものを娘から学べたことにしている。娘のイヤヤイヤヤに父の秘めたイヤヤイヤヤをそっと重ねてぶつけて、音もなく消し去ることができたのだ。大成功。GWの大きな発見と癒しだった。

時間があったのでNetflix『地獄に堕ちるわよ!』を一気見することもできた。ドロドロの昭和人間模様を描いた作品ともいえるが、どこか朝ドラのような物語性を感じてしまって「まっとうにおもしろい」と思えた。

グローバルを意識した”日本の昭和像=狂気のバブル期とバブル崩壊”のビジュアルとストーリー構成は、フィクションの再構築ともいえる都合のよさも当然ながらにじみ出るものの、あまり深く考えずに映画作品を楽しめるタイプなので「ええやん」となる。むしろ『ズートピア2』の方があらゆる価値観に慮りすぎて「考えすぎやん」となって少し冷めた。

批評性とメタ認知は現代人のスキルのひとつなのかもしれないが、純粋にエンターテインメントを受け止めて楽しんで、「おもしろい/おもしろくない」「好き/嫌い」ぐらいの判断軸で消化するぐらいの態度も見直されてほしいなと思う。

このあたりは漠然と2000年前後の洋楽って馬鹿で陽気なノリがあったよな〜とか、90年代の映画ってご都合主義のまっすぐさで押し通してくれて逆に気持ちいいな〜と最近たまに考える。世代的にはオフスプリングのノリを脳内で再生産していきたい。

つまりこういう解釈みたいなものはすべて「大人の批評性イヤイヤ期」が発露みたいなもんかもしれない。SNSも主語のでかいイヤイヤがインプレッションを稼ぐトリガーになっているのだから、ろくでもないなと思う。私はずっと日々のなんでもない投稿を意識しているけれど、いっそ手放したほうが楽だろうなとも考える。

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